2024年9月29日のメッセージ 聖霊降臨節第20主日礼拝

「イエスの友」 ヨハネによる福音書 11章1章~16章

1.「『この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって、栄光を受けるためである。』」

イエスに香油を塗り、髪の毛で足をぬぐったマリアとマルタの幼い弟、ラザロが重篤な病に罹りました。そこで「主よ、あなたの愛しておられる者が病気です」と人を遣わしました。ところが、イエスは二日間も留まったままです。試練は神の栄光のためと言われますが、使いの者も弟子たちも待っている姉妹たちも気が気でない時間が流れました。病は神が私たちを嫌っておられるしるしでなく、魂の救いのためにあります。私たちの思いが地上から離され、上にあるものに向けられ、御言葉に聞き、祈りに委ねることを教えます。私たちが願うことと神がなさることは異なり、私たちの時と神が介入される時は異なることを知ることは大事なことです。

2.「『昼間は十二時間あるではないか。昼のうちに歩けばつまずくことはない。この世の光を見ているからだ。』」

世の誘惑にもブレないで命の道を歩いていく法則は、世の光であるイエスを見つめながら進んで行くことです。荒れた土地でも曲がらずに畝を盛ることができるのは、ずっと先にしるしを立てて、牛に鋤を引かせるからです。私たちが内にイエスを迎い入れるなら、躓かないで命の門に至ります。

3.「ディディモと呼ばれるトマスが、仲間の弟子たちに、『わたしたちも行って、一緒に死のうではないか』と言った。」

トマスは良く言えば慎重派、疑い深く恐れおののく心配性です。イエスは敵対者の手を逃れて隠れているのに、幼い友ラザロのために戻ろうと言われたのです。さすれば、イエスは捕られて殺害され、自分たちの未来も暗黒と死が待ち受けています。絶望の淵に追い込まれて、どうせ死ぬのだからと叫んだのでした。ペトロは熱血で早合点し突っ走りますし、弟子たちは誰もが個性的で異なる性格です。唯一つの共通点は、皆キリストを信じて愛している「友」でした。聖徒たちと御使いたちの前でキリストから、「これはわたしの友だ」と紹介される兄弟姉妹は、なんと幸いでしょう。

(2024.9.29 田中寛也牧師)