2025年1月12日のメッセージ 新年主日礼拝

「イエス、洗礼をうける」 マタイによる福音書 3章13章~17章

1.「『わたしこそ、あなたから、洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。』・・『今は、止めないでほしい。正しいことをすべてするのは、我々にふさわしいことです。』」

教会暦はイエスの降誕からイエスの受洗(公生涯)へ、そしてイエスの受難(十字架と復活)へとつなげます。御子の降誕は受難を目指しているからでしょう。

罪なきイエスがヨハネ(悔い改め)から洗礼を受けるのは、自身のためではありません。イエスは死と滅びの暗闇に住む失われた者の罪を背負われ、私たちを代表し水の洗礼を受けられます。イエスは旧約律法を完全に成就したので、律法の義は終わり(完成)に達し、律法を廃止することができるのです。イエスの洗礼を通して私たちは律法の呪いから解放されたのです。それは光の子と回復された者は、イエスに倣って神の意志に従順な者となるためです。

2.「イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのをご覧になった。そのとき、『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う(喜ぶ)者』という声が、天から聞こえた。」

神の三位一体は、イエスのためではなく、私たちのための証言です。イエスが水の中から上がられると、天がイエスに向かってが開けます。天の国が地上の私たちとつながり、父なる神の御声を聞く恵みに与ります。聖霊が鳩のようにイエスの上に降られたことは、私たちもイエスにあって、父の神の「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う(喜ぶ)者」と呼び掛けを受けるのです。

イエスが私たちのために洗礼を受けられて、律法の義を終わらせてくださいました。私たちはイエスが命じる「互いに愛し合いなさい」との新しい掟に従います。

(2025.1.12 田中直子牧師)