2026年6月7日のメッセージ  聖霊降臨節第3主日礼拝

 慰めのイエス 」 マルコによる福音書 1章35節~45節

イエスは朝早くまだ暗いうちに人里離れた所へ行き、祈っておられます。それは、イエスが安息日の礼拝で教えられ、悪霊に取りつかれた人を癒されたことで、その噂が地域一帯に広まりました。安息日が終わる夕方になると大勢の群衆と病人がイエスの宿に押し寄せ、イエスは休む暇もなく、病人を癒し悪霊を追い出されたのでした。

イエスの最優先は、父なる神との交わりにあります。どのようにして父が世に遣わされた使命を果たすのか、失われている民を神の国へと回復するのかを尋ねながら、この世の務めの忙しさに押し流されることなく、霊性の豊かさに留まるためでした。信仰者の霊性は、最優先に祈りの時間を確保することで守られます。

イエスが独り静まっていると、弟子たちが追いかけてきて、群衆が癒しを求めて捜していますと伝えます。イエスには休む時も枕する所もありません。

イエスの権威ある教えは福音(恵みの支配)であって、単に病気の癒しを求める群衆の利益のためではありません。そこで、押し寄せる群衆から離れ、ガリラヤの町々の会堂に出向いて、福音宣教と病人を悪霊の支配から解放されたのです。

旅の途中で、一人の重い皮膚病を患った男が、イエスの所に来て膝まずいて、「御心ならば、わたしを清くすることが出来ます」と懇願しました。彼の皮膚病は社会から追放されて人里からも隔離される、絶望が支配する病気です。その男はイエスの噂を聞いて一縷の望みをかけたのでした。

そこで、御心に適うならば、神の恵みを受けることも許されるでしょうと、心砕かれた敬虔な祈りをささげました。この病気のゆえに、近づくことも、手で触れることもいりません。心に思ってくだされば幸いですと願ったのです。

ところが、イエスは深く憐れみ、手を差し伸べて触れられ、「わたしの心(意志)だ。清くなれ」と言われたのです。自分が感染することを恐れず、触れて苦しみを分かち合い、権威をもって癒しを宣言されたのです。

そして、イエスはその人を立ち去らせて「ただ、祭司に体を見せ、モーセが定めた清めの供え物を献げて、(社会復帰する)証明をしなさい。」と言われました。このように、神の国が広がることに集中されたのです。「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」が優先事項なのです。イエスを救い主と信じるための癒しがあるのであって、癒されるためにイエスがあるのではないのです。それで、癒しだけが先行する状況に距離を置かれたのです。

(2026.6.7 田中直子牧師)