2022年7月17日のメッセージ
一粒の麦、死ななければ (ヨハネによる福音書 12章20節~26節)
*特別な「一粒の麦」
「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(12:24)
ここで「一粒の麦」というのは、もちろん主イエス・キリストご自身を指しています。特別な「一粒の麦」です。
「地に落ちて」という表現は、御子なる神様が、この地上に降り立ったことを意味します。また、同時に、「地に落ちる」とは、地上で人々に踏みつけられて 捨てられることをも連想させます。しかし、この「一粒の麦」の中に「復活の命」「永遠の命」が隠されています。イエス様の「十字架の死と復活」によってそれは明らかとなります。
*栄光を受ける時がきた
この日、ギリシャ人が、イエス様のもとに、連れてこられます。そこで、イエス様は「人の子が栄光を受ける時がきた」と宣言されます。
ギリシャ人の登場によって、イエス様の福音が すべての民族の救いにも拡大された、ということが明らかになりました。民族や時代や、文化や、思想などの違いを超えて、すべての人たちに当てはまるものとして、私たちの目の前にも置かれています。私たちは ただそれを信じるだけでよいのです。
イエス様のお言葉、「それは御子を信じるものが一人も滅びないで永遠の命を得るため」なのだ、とヨハネ福音書に記されています。(ヨハネ3:16)
*「一粒の麦」日野原重明先生のこと
このイエス様のお言葉は大変有名で、外国の小説などに ひょいひょい出できます。よく知られたところでは『カラマーゾフの兄弟』の最初に書かれています。日野原重明先生は2018年に105歳で亡くなられましたが、日野原先生は、よど号ハイジャック事件に遭遇したとき、犯人からこの本を借りて読んで、このみ言葉について考えて、「『僕の命は与えられたものなんだ、これから、この与えられた命を誰かのために提供するべきなんだ。』と新しい世界が開かれた。」と言われました。このことは『信仰のものがたりp40』に書かれています。
イエス様の十字架において現れた神の愛に触れた者は、イエス様というお方と離れがたい関係に入りますから、イエス様の歩みと自分の歩みを 重ね合わせるように生きざるを得なくなります。つまり、キリストに倣った生き方を生きる者とされるのです。イエス様と離れがたい関係になると、イエス様と同じように、自分の命を「地に落ちて死ぬ一粒の麦」として、自らをささげる生き方をする者が出てきます。
*地に落ちてこそ
この季節、真庭市の県道沿いの水田で、青々とした稲穂がさわやかな風に揺れているのを見かけます。とても美しい光景で、稲穂たちも気持ちよさそうにしています。でも、いつまでも楽しんでいるわけにはいきません。稲穂たちはすぐに刈り取られ、一部のコメは地面に蒔かれることになります。地面に蒔かれない限り、成長して新しい実をつけることができないからです。居心地がいいからといって、高いところにいては、実をつけることができません。地面に蒔かれ、泥にまみれてこそ、実を結ぶことができます。これは人間にもあてはまりそうです。
自分の殻に閉じこもり、高いところから他の人を見下すような態度で 生きている限り、わたしたちは何の実りも もたらすことができません。地面に落ちて、自分自身の限界や、人間社会の汚い部分に直面して 泥にまみれるときにこそ、わたしたちの中で新しい命が動き始めるのです。
米も麦も、蒔かれる場所を選べないように、わたしたちも生まれてくる国や 家族や時代などを選べません。ですが、どこに落ちても、落ちる場所は必ず愛なる神様の大地の上だということを忘れないようにしたいと思います。私たちが殻を破り、心を開けば、神さまの愛の大地が私たちの心を豊かな栄養で満たしてくれるはずです。信じて心を開き、神様の大地にしっかり根を張ることで、私たちは成長し、たくさんの実をつける米や麦に成長してゆくことができるでしょう。
(2022.7.17 宮本裕子師)