2022年8月7日のメッセージ

 一番になりたいなら(マルコによる福音書 9章30節~37

1.「「人の子は、人々に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する。」・・弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった。」

二度目の受難予告にも、弟子たちは死と復活を理解せず、説明を聞くことを恐れています。復活の栄光だけを求めたいからです。救い主は悪の力に拉致され、不法に裁かれ、処刑されます。キリストは全人類に罪を贖う子羊として来臨されたのです。

2.「イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい人は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」」

イエスは「座り(教える)」教会の指導者を周りに集めます。一番になることは否定されず、一番になりたいなら、指導者として前に立つのではなく、僕として皆の後ろで仕えなさいと諭されます。なぜ、後ろから仕える指導者になれと諭されるのでしょう。

3.「一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」」

そこで、イエスは子供の手を取り、円座の真ん中に立たせ、抱き上げます。幼子は彼らが見上げるいちばん上にいます。当時の子供は低く小さな評価です。イエスは抱き上げた子供と同一視し、自らを低くして仕えるすべての人の僕とします。神の国での偉大さは、世の中のどの時代とも相いれないの優先順位の大逆転です。

(2022.8.7 田中寛也牧師)

 

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