2022年11月6日のメッセージ
神は何でもできる(創世記 18章1節~15節)
1.「『あなたの妻サラはどこにいますか。』」
神はアブラハムを訪ねられ、約束が成就する時を知らせます。神の約束は理性や信念を越えていますが、妻サラの肉には可能性がないのです。そこで、信仰の焦点は、神の問いかけとして臨んだことに、私たちがどう決断するかです。
2.「『私は来年の今ごろ、必ずここにまた来ますが、そのころには、あなたの妻のサラに男の子が生まれているでしょう。』・・サラはひそかに笑った。」
神の言葉がすでに発せられました。サラは約束を疑い、虚しい希望が笑いとなりました。けれども、私たちに心の準備があろうとなかろうと、神は約束を果たすことができます。それならば、マリアのように「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」と答えたいのです。主イエスは「この杯をわたしから過ぎ去らせてください。わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」と十字架を受けられたようにです。
3.「『なぜサラは笑ったのか。・・主に不可能なことがあろうか。・・サラには必ず男の子が生まれている。』」
主イエスは「人間にできることではないが、神にはできる。神には何でもできるからだ。マルコ10:27」と言われます。「信仰とはつまづきに満ちたものである。約束は、我々の期待やすべての証明を越えたところにある。神の「不可能を可能にすること」は、恐ろしいことに我々の未来と関わっている。ブルックマン」。そのように、神は約束したことを笑い(イサク誕生)で満たされるのです。
(2022.11.6 田中寛也牧師)